こんにちわ、katadsuketaiです。
続きを書きます。
さらに、新宿や渋谷に代表される首都圏の商業地域は、
大通りを通っていると
鉄筋コンクリートのビルが多く目について、
一見、安全性が高いように思えます。
しかし、これは大いなる錯覚です。
市街地でも、大きなビルが並んでいるのは、
区画を囲む周辺部分だけ。
表通りから一歩、区画のなかに足を
踏み入れると、古い木造の店舗などが
密集している場所が非常に多いのです。
首都直下での大地震が発生すると、
こうした区画のなかにある木造の建物が倒壊し、
やがて火が出て、生き埋めになった人を巻き込みながら
あたりを焼き尽くすことにもなりかねないのです。
これだけ建物の密集した首都圏。
専門家が恐ろしいと口を揃えるのは、
地震による都市の破壊だけでなく、
それにつづく大火災なのです。
大正の関東大震災では、隅田川周辺の下町の地域などで、
火災によって発生した上昇気流が巨大な竜巻のようになる
”火災旋風”という現象が発生しています。
灼熱の突風が人々を巻き上げながら焼き殺すという、
地獄のような光景が広がったことが記録されています。
記録では直接地震でなくなった方は2万人弱、
震災全体では約11万人です。
差である約9万人は火災でなくなっています・・
日本で記録に残る限りでの最大災害死者数です。
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関東大震災当時と現代、いろいろと当時と比べて
減少した物と新しくできた物とがあります。
例として
■減少した物→かまど、大八車、着物、都電、ジャリ道
市街地の工場、東京湾の漁、行商・・・
■新しくできた物→地下鉄、高速道路、鉄道路線、自動車
高層ビル(マンション含む)、石油コンビナート
ガステーブル、米軍基地、空港、外国人観光客
揺れが起きたときに被害が増えそうな物が
当時のかまどを除きいっぱいあります。
外国人観光客に関しては後述します。
当時なぜ大火災になったか。大きな要因が2つ。
それは地震が発生した時期と時間が重なります。
1923年9月1日11時58分、昼飯前恐らく炊事等で、
火を使用していたであろう時刻です。
当時ガステーブル等無かった時代ですから、
七輪・かまど・炊飯釜等、
直に火を使用していたと考えられます。
消火に時間が掛かります。
二つ目は天候です。
当時能登半島沖を台風が通過し、
関東地方全域で強風が吹いていました。
火と風。
人間様の管理下にない場合、
非常に厄介な組み合わせです。
この2つの要因により、記録的な大災害となったのです。
続きます。
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